師の追悼展が終わった。
今後何時拝見出来るかわからないので悔いの無いように浴びれるだけ亡き師の作品を浴びてきた。師との出会いについては 追悼文 に公開した通り。副代表の弟である鳳煌氏の紹介である。この縁は振り返るに人生最大の妙縁だったと言える。家族全員の人生を変えた。アイコンになっている子供の写真は知り合って二年後辺りの息子である。
当時ライフワークとなる被写体に迷っていた。それを見兼ねた鳳煌氏が先生を紹介するも気分が出ず二年近く聞き流した。氏は一方で今後の展開を見据え先生の写真を残したいという思いがあったようだ。アシスタントをしながらの撮影は厳しく、何より「素人の撮影に写る気は無い」と次第に拒否されるようになったと聞く。ならば「プロなら」と考えたのだろう。諦めずに声をかけてくれた。そういう運びのようなものがあったのだろう。
二年後、氏の後押しを受けお陰で初の個展を開催出来た。展示したメインが野尻泰煌先生の写真である。(本サイトでも公開している)その最初期に撮影した作品が師の末期を飾ることになろうとは夢にも思わず。本当に因果なものだと思う。言いたく無いが、導かれたようですらある。
不思議なもので後年撮影する機会は一気に減った。主戦場だった旧東十条ふりあい館の閉館。新しい施設では書の稽古の許可が降りない。それでも師は2004年までは五反田にある教室で大作に勤しむこともあり、鳳煌氏に声をかけてもらっては馳せ参じた。しかし泰煌先生は、その類まれなる柔軟性により、大きい紙で大きな作品を作る方式ではなく、古来からそうであったように日常使うテーブルで大きな作品を書くことに発想を転換させた。撮影機会は壊滅的に。
弟には「稽古中に撮ればいいじゃない」と言われたが、流石にそれははばかれる。何せ稽古に来ているわけだから。といっても、そのほとんどは会話だが。私はその辺り彼と違って器用ではないので喋りながら撮影というのは出来なかった。せいぜい氏が「藝文対談ともえ」の収録で相席になった際にシャッターを切るぐらいであった。彼が行きがかり上プロデュースすることになった 藝文対談ともえ では今は亡き野尻泰煌先生の声を聞くことが出来る。私も愛聴している。
先生、心から、ありがとうございました。家族全員がお世話になりました。「弟子になりなさい。書家を撮るのなら自分も書けないと。じゃないと本当の意味で書家は撮れないよ。プロならわかるでしょ僕の言っていること」という言葉が思い出されます。
Potograph by MATSUZATO hiroyoshi.
泰永会の会員なら本写真は泰永会会員専用の交流サイト[泰永会メンバーズ]内のフォーラムにてモザイク無しの写真を提供させていただきました。也太奇さんのご協力によりL判相当に最適化されたデータをご利用可能です。ログインしてご確認下さい。また[鳳煌氏のサイト]では氏が撮影したデータが多数公開されているようです。当方も後ろ姿が写っておりました。ご興味のある方はご覧下さい。これで一区切りですね。皆様のお陰で良い書展になったと思います。お疲れ様でした。m(_ _)m